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管理者さん (95epcv27)2024/7/16 09:33 (No.1215597)削除
文学の横道 第3回 9月度読書会テーマ『風姿花伝』(世阿弥)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
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管理者さん (95epcv27)2024/6/11 08:43 (No.1186900)削除
文学の横道 第2回 7月度読書会テーマ『沖で待つ』(絲山 秋子著)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (95epcv27)2024/6/11 10:43削除
今回初めて著者の作品を読んだ。電車通勤で1時間以内であっという間に読み切れる作品である。
 文春文庫だとフォントが大きく、内容も社会人が主人公なので、同じ社会人の身としては、主人公や同期の「太っちゃん」に親近感が沸くと共に、共感できる部分が多々あった。
語り手の「私」(及川)は、東京の大学を出たあと住宅設備機器メーカーに就職し、福岡に赴任することになる。福岡に赴任した「私」は九州の空気を好ましく感じながらも、博多弁が話せない自分をよそ者だと感じ、更衣室や給湯室で職場の人から標準語を用いられることに違和感を覚える。
 同僚で同期の「太っちゃん」もまた、東京の大学を出て福岡に配属された、「私」と境遇を共にする人物である。二人は気の置けない同僚としての関係を築き上げていく。
 友達以上恋人未満の親密さと奇妙さを持った繋がりは仕事を通じて維持されている。配属先の変更により、福岡に「太っちゃん」を残したまま「私」は埼玉への転勤の機上の人となる。
 やがて 「太っちゃん」は東京に赴任し、関係は再開される。
 ある日二人で飲んでいる時に、太っちゃんから「先に死んだ方が相手のパソコンのHDDを破壊する」という提案を受け、私も約束を交わす。秘密の保護という名目によって、死という事象において二人は通じ合うことになる。
 そして「太っちゃん」は不慮の突然死に見舞われる。私は悲しみの中、交わした約束に従い星型ドライバーを差し込んで円盤に傷を入れ、読み出せないように“始末”する。「私」と「太っちゃん」の関係性において、死は秘密と密接に結びついていた。「私」が、死に最も近づくのは「太っちゃん」の秘密を壊す瞬間であったのだ。
 「私」に再会した「太っちゃん」はずっとしゃっくりをしている。しゃっくりによって「太っちゃん」の言葉は細切れになって、「私」と言葉のリズムがずれている。これは「私」と「太っちゃん」のいる世界の「断絶」を示唆している。
 HDDに隠された「太っちゃん」の秘密が、彼の作成したポエムだったかどうかは最後まで分からない。
「太っちゃん」と「私」との最後の会話で、「私」の秘密が明かされる。
 これによりようやく横並びになることを示している。「私」の心に残った「沖で待つ」という言葉は、本来「太っちゃん」の妻に向けられたものではあるが、「私」が「太っちゃん」のいる場所へたどり着くのを「太っちゃん」が待っているという意味を読み取ることができる。二人を結びつける線は、岸から沖まで切れることなく一直線に繋がっているのである。
 「私」は、「また太ったんじゃない?」と口にすることで、「私」自身が存在している世界に「太っちゃんを」を止まらせようとする意思、「太っちゃん」への親愛の情が反映された会話である。
 単なる会社の同期が、地方への赴任、そして別れ、そして再会を経て、“腐れ縁”的関係になり、互いの秘密を結果的に知ることにより、自分は他人に恥部を明かし、他人は自分に恥部をさらす結果になる。
そんな恥部を知ってしまった以上、赤の他人のままではいられなくなるという不思議。これがこの小説のテーマなのではないだろうか?
 主人公の「私」が男と渡り合うような過酷な住宅設備機器メーカーの営業職というのも、本小説で「太っちゃん」が心を許せ、気安く何でも言い合える関係になっていると感じた。同じ“企業戦士”同士が時に愚痴を言い合ったり、オアシスを求めたりと、むしろ私の方が「太っちゃん」のマウントを取っている気がして面白かった。
由宇さん (96ieustn)2024/6/27 10:25削除
沖で待つ
“新卒同期という非言語の日本システム”

産業システムの構造転換とともに、喪失の危機にある概念として
年功序列がある。

経験年数とともに、賃金は向上し、勤務年数が増えれば退職金もあがる。
組織への貢献度はほとんど関係がない。

しかし、システムは崩壊しつつある。産業が成立しないからだ。
なぜ、成立しないかといえば、「実利的なもの」以外、人はお金を払わなくなり、儀式的な
無意味なことには産業が成立しづらくなっている。冠婚葬祭がそのいい例である。
ブライダルマーケットは縮小をたどる。

あたりまえといえば、あたりまえなのだが、不随していた、ある概念が喪失してしまうのは
やや刹那に耐えない。

その概念こそ「同期」である。日本独特の連帯感をもつ同期。

学徒によるクラスメート、あるいは、部活動の仲間、よりもその結束は独特で強い。

友人よりも強く、家族よりもときに強さを持つ、年数の経過をも超越する。
男女関係よりも時に結束し、本音を語れる。

まれに同期が存在しない社会人がいる、誤解を恐れずにいえば、うつ病候補者になりえる。

それほどに貴重な同期入社を表現している。

非言語社会システムの記録として、貴重な作品だと感じた。
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管理者さん (95epcv27)2024/5/30 15:28 (No.1176754)削除
文学の横道 第1回 6月度読書会テーマ『墓掘り男をさらった鬼の話』『信号手』(ディケンズ著)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (95epcv27)2024/5/30 15:30削除
課題テーマ
・墓掘り男をさらった鬼の話
・信号手
を読んで

「墓堀男をさらった鬼の話」 
 この物語は独立した短編ではなく長編小説『ピクウィック・ペイパーズ』の中で語られる挿話であるらしい。
孤独で陰気で、人の不幸を喜ぶようなひねくれ者の葬儀屋ゲイブリエル・グラブが、クリスマス・イブの夜に墓場で鬼に出会うという物語である。
この人物は後の『クリスマス・キャロル』の主人公スクルージの原型だという。

 世をすねた墓堀男がクリスマスイブの夜にやり残した墓堀の続きをする。人が幸せそうにしていると無性に腹が立ち、嫌みを言うのが常であった。この夜も墓堀に向かう途中、クリスマスの讃歌を練習していた子供をひっつかまえて、カンテラで何度も殴る。子供が泣きながら逃げていくのを見て楽しくなる男である。
 ウオッカを飲みながら墓堀をしていると、先程から子供を泣かせる様子を見ていた鬼が現れ、このゲイブリエルを地底に連れて行く。途中鬼たちが墓石で次々に馬飛びをしていく場面など、恐ろしくもコミカルな要素も多いが、心に残るのははやり鬼がゲイブリエルに見せる映画のワンシーンのような映像の数々と、彼の反応である。
鬼は、死んでいく天使のような幼子の姿や、貧しいけれどひたむきに生きる人々の様子、美しい自然の風景などを次々とゲイブリエルに見せていき、ゲイブリエルはこれまで見ようとしてこなかったそれらの光景を食い入るように見つめ続ける。
そして、妬みの気持ちから楽しくはしゃぐ子供に意地悪をしていたことを鬼に指摘された彼は、映像を観終わり、これまでの自分勝手な考えを改めることを決意する。
このあと、改心し、鬼から解放されたゲイブリエルがどのような人生を送ったのかは詳しくは描かれていない。
道徳的な要素が全面的に押し出されているというよりは、超自然的な存在の鬼の持つ恐怖やユーモア、自分勝手なゲイブリエルが鬼たちに好き勝手にされるおかしさなどが目立った作品となっている。
悔い改めるゲイブリエルの様子はどこかあっさりとしてもいる。
希望と野心に燃えていた若き青年ディケンズの姿が垣間見える小説である。

「信号手」
 ディケンズの傑作短編と言われている。多くのファンがいる作品である。
信号手の仕事は、前後のポイントからの情報に基づいて必要があれば自分の信号を赤に変えるというものである。自分も情報を送る任務を負っている。
 「私」 は偶然に崖から深い窪みを見下ろして信号手を見つける。声を掛けて信号手の小屋へ行き世間話をする。しかし信号手は酷く何かにおびえている。話をするうちに、彼が赤信号燈のところに幽霊がいて、しきりに自分になにかの合図を送っているのが見えるという事を知る。胸騒ぎがするが、そんな曖昧な情報を送ることができずにいた。日を改めて小屋を訪れた私は、彼が列車に轢かれて死亡した現場に遭遇する。その列車運転手の状況説明は、彼 (信号手) が見たという幽霊の行動とそっくりなので戦慄を覚える。
一種の未来予知能力を題材にして、信号手にそれを体現させたようにも見える。一方、作中の 「私」 が実はこの世の人物ではなく、信号手の身に危険が迫っていることを伝えに来た霊界の者という設定も考えられたりする。
 この小説を書くきっかけなった実際の列車事故に遇ったのは1865年6月9日、翌年に書き上げて、1870年6月9日にディケンズは亡くなっている。

チャールズ・ディケンズといえば、貧しい人々の視点から社会を見ようとしたイギリスの国民的作家である。
「おうい、そこの下の人。」
本小説のキーワードは、この一言に尽きる。
このセリフが何回か出てきて、誰が誰に対して放ったセリフなのか後半分からなくなる。
私なのか? 幽霊なのか? はたまた信号手なのか?
この誰が放ったかわからないセリフが読者を混乱させ、恐怖を味わせる効果を増大させている。
そう言った意味でこの小説の手法は現代のミステリー小説の源流になっていると思うのである。
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