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掲示板の主旨に反する投稿は掲載されません。掲載の是非は管理者が判断いたします。予めご了承願います。
管理者さん (9bsra2fl)2025/2/21 08:15 (No.1392833)削除
第9回 4月度読書会テーマ『河童』(芥川龍之介)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
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管理者さん (9bsra2fl)2025/2/17 16:42 (No.1390526)削除
第8回 3月度読書会テーマ『夏陽炎』『レスパイト』(予備)(藤堂勝汰)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2025/2/17 16:46削除
【読書会テーマ】
問1:あなたはどの登場人物に自分を投影しましたか?

問2:雅生(がしょう)の行為をあなたは肯定しますか? それとも否定しますか?

問3:新(あらた)は雅生(がしょう)を赦すと思いますか?

問4:その他自由感想をお願いします。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2025/2/21 08:13削除
『レスパイト』
【読書会テーマ②】
問1:親の介護と仕事の両立だったらどちらを優先させますか?
問2:「俺」と「裕美」の将来についてあなたはどうなっていくと思いますか?
問3:その他自由感想をお願いします。
返信
返信2
管理者さん (9bsra2fl)2025/1/20 16:27 (No.1374084)削除
第7回 2月度読書会テーマ『アサッテの人』(諏訪哲史)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2025/2/5 11:12削除
【読書会テーマ】
問1:叔父が妻朋子と生活していた時分に繰り出した、『ポンパ』や、『タポンテュー』『ぁチリパッハ』は、どんな意味が隠されていると想像しますか?

問2:奇妙な言葉と吃音との関係性について何かあると思いますか?

問3:叔父にとって吃音がもたらしたもの、失わせたものとは何だと思いますか?

問4:『チューリップ男』と『アサッテ』との因果関係についてあなたはどう思いますか?

問5:その他全体の感想をお願いします。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2025/2/5 11:16削除
【テーマについて・感想】
問1:叔父が妻朋子と生活していた時分に繰り出した、『ポンパ』や、『タポンテュー』『ぁチリパッハ』は、どんな意味が隠されていると想像しますか?
【回答】
特に深い意味は隠されていないと思われる。自らの思考がアサッテの方向に彷徨う時に、無意識に発せられる入口と出口の証なのではないだろうか?
このワードは小説の中では頻度、声の大きさ、タイミングなどで大きな違和感が残るが、自らも自問自答してみると、案外そんなに突拍子もない事でもないと思ったりもした。
思考が彷徨いつつある時に、自分も特に意味を持たないワードを口走っている事があると改めて感じた。

問2:奇妙な言葉と吃音との関係性について何かあると思いますか?
【回答】
物心ついた時から吃音(どもり)に悩む叔父が受けて来た嘲笑や罵倒は当人しか分からない心の傷痕であったと推察される。問3とも関係があるが、この吃音(どもり)が本人の意思や努力とは裏腹に20歳の時に突然解消される。これを境にかは判然としないが、叔父のアサッテが発症したと考えても違和感はない。つまり、キツツキが言えない日常から、当り前にキツツキが言える日常に変化し、叔父の中で何かが吹っ切れ、奇妙で言いづらいワードの連呼が本人の意思とは裏腹に無意識に口から出てしまうようになったと考えたら、自分の中では合点がいく。

問3:叔父にとって吃音がもたらしたもの、失わせたものとは何だと思いますか?
【回答】
深読みし過ぎのきらいも無くはないが、叔父の日常は吃音で均衡を保っていた。
しかし20歳の時にその日常を揺るがす出来事、すなわち吃音がやむという出来事が起きてしまった。叔父は大層動揺し、その違和感(不均等)を保つために、吃音の代わりにそれとほぼ同等の「意味不明なワードの発声」を掲げる事により、心の平安を維持できたのではないだろうか?

問4:『チューリップ男』と『アサッテ』との因果関係についてあなたはどう思いますか?
【回答】
これも問2、問3と関係があると考える。
エレベーターの中で繰り広げられる非日常で自らの意思とは裏腹な行動は、叔父にチューリップ男とアサッテ男である自分との明確な境界線を薄めさせてくれたのだと思う。
皆が皆、抱えているモノではないにせよ、自分固有の病的なものではないと思える光景であったと思う。

問5:その他全体の感想をお願いします。
選考委員である山田詠美が「読んで吹き出した」とコメントしているが、自分も読んで面白おかしく感じた。
特に時折繰り出すワードに関して、発し方、イントネーションなどを細かく解説している箇所には、ここまでするかとあきれた次第である。
本作も前回の「佐川君からの手紙」同様、純文学という定義からは大きくかけ離れているという印象は拭えない。著者である諏訪 哲史は名前もそうだし、出ている学部も哲学科ということで、彼が師と仰ぐ
種村季弘に捧げた著者の哲学的理論的小説となってしまっている感は否めない。師に認められたい、褒められたいという一心で書き連られた思いが前面に出てきて読む側が委縮してしまいそうである。
また、表現もかなり堅苦しい。特に後半部分は恐らく著者が本作を纏めに入ったためか、混迷を極めて行っている気がする。そういった意味からしてみても、他の著書ではいわゆる文学的著書があるのか興味深い。
最後になるが表題の「アサッテ」について簡単に記しておきます。
アサッテ(あさって)とは、明日の次の日、つまり翌々日を意味する言葉です。
「あさって」は「明日が去って(あすがさって)」が転訛した言葉と言われています。
「あさって」には、次のような意味合いもあります。
見当違いであること
向くべき方向や判断を誤っていること
「あさって」と似た言葉に「明後日」がありますが、「あさって」は一般的な語、「明後日」は改まった言い方です。
里井雪さん (9fpcu9wm)2025/2/14 01:05削除
【テーマについて・感想】

 LINEで藤堂さんが「なかなか難解で……」とコメントされていましたが、私はズバリ酷評しています。ですが、あまり純文学を読んでいない私、昨今の芥川賞作品など、読書会のテーマでなければ読まなかった作品。
 大変、興味深く読ませていただいた、という感謝は、あらかじめ申し上げておきます。



問1:『ポンパ』……は、どんな意味が隠されている?
 無意味であることの意味、ではないでしょうか? これらの言葉、ネット検索しても適切な意味合いを持つ「何か」とは繋がりません。

 ポンパについては、
「ポンパ(POMPA)は、日立製作所の登録商標の一つで、カラーテレビの宣伝マスコット」
らしいのですが、関連性はないでしょう。

 作者は「ない言葉」を発想し、ナンセンス的な面白さを狙ったのでは? と思いますが、残念ながらその「笑い」は、オジサンのダジャレのように古めかしく、全編を通じピンときませんでした。

 いずれにしても、この言葉を正体は何か? と読み進んで言って、種明かしがない、というのは、どうなんでしょう?



問2:奇妙な言葉と吃音との関係性
 吃音はなくとも、考え事をしていて奇妙な言葉を発した経験、私はありますし、他人が変なことを言っていたのを聞いた、記憶もあります。奇妙な言葉だけではなく、人前で発してはいけない卑猥な単語だったりもしますが……。吃音は脳の不具合により生じるものですので、医学的に考えても何らかの関連性があると思われます。

 聴覚の話ですが、突発性難聴になったことがあります。症状は、全ての音が聞こえないのではなく特定周波数の音だったり、駅の女性アナウンスが時々二重に聞こえたり、人は耳ではなく脳で聞いていることを自覚しました。また、日本人は虫の声を左脳=言語脳で聞いているが、外国の人は右脳で音として聞いており、脳が雑音と判定して聞こえないことがあるらしい、という話もあります。

 作中で脳医学的な解釈を入れた方がよかったのではないでしょうか? 



問3:叔父にとって吃音がもたらしたもの、失わせたもの
 吃音は叔父さんにとって、どこか「違った人生」を歩もうとさせたと言える気がします。それが突如消えて、幸せな結婚生活を送れたが、それも儚く潰えたという流れでしょうか。



問4:『チューリップ男』と『アサッテ』との因果関係
 推測するしかないのですが、叔父さんが『チューリップ男』の不可思議な様子を覗き見て、その生き方に共感し、自らの生き方を変えたというふうには思われます。

 問1、2、4について、作者自身が何らかの答えを出しているとは思えません。なにか不可思議なものに価値を見出す、というのはかなり古典的な手法で、今時、流行りませんし、作者としての責任放棄、投げ出しにも感じます。


問5:その他
 メタ小節という言い方で、「楽屋ネタ」を混ぜる形での記述がなされています。新奇性があるといえばそうですが……。例えば、演劇のDVD、メイキング映像は別の巻に収録されていますよね?

 両者を混同させることにより、興をそいでいると思いますし、なにより読みにくい。作者は「どう読ませるか?」を考えていない、独りよがりな印象を受けます。

 加えて、やたらと冗長ですね。「芥川賞に最低限必要な枚数に膨らませたのでは?」と邪推してしまいます。
由宇さん (9el8aeim)2025/2/15 00:52削除
アサッテの人



読書感想を書くときは、なるべく肯定的にとらえて書こうと

思うのですが、本作は、否定的にしか僕のなかでは消化できません。



あまり食べたくない、、高級そうに見えて、味は最悪。。のレストランという感じです。



唯一、吃音おじさんの無くなってしまった朋子 奥さんの一人称表現。

そこから、日本の健美で賢者の、(禁欲でありながらもセクシー)な

女性像が浮き彫りになってた感じがして、表現が生きていたと思います。



正直、それ以外は、言語学のデコレーションを取れば、「やすっぽいペシミスト」

しか残らない・・・感じなんです。



問1 朋子さんとの関係性、というか、朋子さんの人間性を

   際立たせる 吃音の役割だと感じます。

  問2、問3も同様です。



芥川賞・・・??  なぜ・・・?



私小説までもなく、日記を 編集しなおしただけ・・・かな。



生意気で今回はすいません。面白くなかったです。
返信
返信4
管理者さん (9bsra2fl)2024/11/27 14:15 (No.1335889)削除
第6回 1月度読書会テーマ『佐川君からの手紙』(唐十郎)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2025/1/9 14:06削除
【読書会テーマ】
問1:あなたは今作「佐川君からの手紙」を芥川賞(純文学)にふさわしいと思いますか?
あなたが選考委員だった場合、本作を推しますか? 
それとも拒絶しますか?

問2:唐十郎はどうして佐川一政をテーマにこのような小説を書いたと思いますか?

問3:K・オハラは何の為に登場していると思いますか?

問4:その他全体の感想をお願いします。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2025/1/9 14:13削除
【感想】
 本作を初めて読んだ。
 唐十郎という人物は劇作家、劇団の主宰者、俳優の大鶴義丹の父、李麗仙の元夫というイメージがあった。
 本作「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞した事も知っていたが、今回読んでみて自分が想像していた小説の内容とは大きくかけ離れていたことが分かった。
 芥川賞選考委員の選評を見ていても、賛否がほぼ等分に分かれていたことがわかる。
 大方、革新派と保守派で別れたような気がする。革新派は従来にない切り口、テーマ、書き方を良しと捉え、芥川賞受賞に賛同したが、保守派は従来の純文学の枠組みから大きくかけ離れた本作を拒絶した。
 自分も本作が芥川賞にふさわしいかと問われると、「否」と答えるであろう。
いろいろ紛糾したものの、本作は第88回芥川賞を受賞している。
受賞した以上と言うと失礼だが、受賞作として敬意を払いつつ感想を述べていきたいと思う。
 前段でも記したが、タイトルの「佐川君からの手紙」がどうもしっくりこない。
確かに文中で佐川一政から手紙が届くには届いているが、フランス人女性の人肉を食した佐川の内面や心理に全く食い込んではおらず、彼がいかなる理由で、ルネを殺害し、その体を食べるに至ったのかが全く分からない。彼から手紙をもらう、もしくは手紙のやり取りをすることから、その一番ナイーブな側面に踏み込んでいく事を期待していただけに、拍子抜けした感は否めない。
 その代わりのつもりなのか、K・オハラという架空の人物を登場させ、佐川と主人公の間に立たせ、佐川と言う男の人となりが分かるようにしている。ただ、佐川とK・オハラとの関係性も佐川とルネとの関係ほど接近した物ではなく、佐川と言う男の人となりを表現できている、成功しているとは思えない。
 では唐十郎はどうして佐川一政をテーマにこの小説を書いたのか?
 僕は唐にも佐川一政と交わり通ずる共通な側面があると感じたからではないかと思う。
同じアジアの小さな体躯である佐川がオランダ系イタリア人のルネに抱く憧れや劣等感を唐自身も感じていたのではないか?
 人間というものは不思議な動物で、到底敵わない、凌駕できないと思うと完全に委縮してしまうタイプと、真正面からの正攻法な攻撃ではなく、側面から武器を用いて攻撃し倒すという方法を取るタイプの2種類に分かれる。そういった点では、佐川も唐も後者のタイプだったのではないだろうか?
佐川一政は完全に劣等感に雁字搦めになり、ルネを倒し、自分のモノにしたいという欲求を募らせていったのではないだろうか?
 その募らせていく様を唐はK・オハラを据える事により、傍観者として登場させたのではないかと思った。K・オハラには無く、ルネにあったモノ。
 それが本作のテーマであると思う。
 自分は、日本人にはない「目の色」「髪の色」「骨格」「独特の体臭」だったと思う。
当時の小柄な日本人の典型である「佐川一政」はフランスに来て、このルネの持つ「圧倒的な違い」を厭というほど味わった。そしてそれと同時に日本人女性がどんなに背伸びしても敵わない魅力も感じた。
そして手に入れたいと感じたのではないだろうか。
言葉や文化の違いで、彼女の本当を理解することができないと感じた佐川は、最終手段として彼女の肉体を自らの体内に入れる事によって、その欲求を満たすことができると感じた。
その様をK・オハラを登場させ、彼女に対しては同様の欲求が湧かなかったことを読者に顕示している。

 全体として、さすが劇作家らしく描写は巧いと感じた。その反面行間から漂う書き手の思いや感情が薄いと感じた。僕は純文学と言うのはこの行間から漂う新進気鋭の生々しい思いみたいなものが溢れ出ているのがいい小説だと思っているので、そういうものが感じられなかったのは残念である。
 また、本小説を通じて、パリ人肉食事件を知れたこと、そしてなぜ起きたのかをわずかながらにも知れたことは良かったと思う。
由宇さん (9el8aeim)2025/1/16 23:02削除
この作品、初めて読んだのが1983年。高2だったと思う。当時はセンセーショナルだった。が、しかし、時は流れる。経つ。  今読めばただ単に「企画勝ち」の小説かな、という気がする。正直に言えば。

現実と幻想の境界もあいまい
佐川君と作者の共時性もありまい
現代と過去
正気と狂気

そんなファンタジーを演出したい気持ちはわかるんだけど・・・なんか、全部中途半端な感が否めませんでした。

よって・・芥川賞を風刺すればぴったりかも(嫌味です♪)
     (奇をてらい、話題性のみを重要視するならば)

文学としては、半端です。

オハラが自分の祖母というオチ。。。。
ううーん、自己満足を超えませんよね。

私が勝手にみるには、このハンニバル事件。
狂気に見えても、ただの異常犯罪の類だと存じます。

性欲は朝井リョウの「正欲」で表現されている通り
ひとそれぞれなのだと思います。

絶歌の さかきばらせいと も異常性欲者でした。

ポイントは自分では、「みつからない」であろうと
信じていたこと。。 これが犯罪として罪を問える境界だと
思います。(話がそれましたが)

オウム信者たちも最後まで、「俺たちはつかまらない」と
信じていたことが、ルポからわかります。


佐川くんを ファンタジー扱いすることによって企画が成功した小説例  としての評価を超えません。

生意気ですいませんです💦
返信
返信3
管理者さん (9ckx763u)2024/11/27 08:32 (No.1335688)削除
第5回 12月度読書会テーマ『みちのくの人形たち』(深沢七郎)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2024/11/29 15:44削除
みちのくの人形たち
深沢七郎を読んで

深沢七郎と言えば「楢山節考」が代表作である。
以前読書会で「楢山節考」を読み、いたく感銘を受けた記憶がある。
今回彼の著書をまた読む事になった。
深沢七郎の文章は楢山節考を読んだ時もそう感じたわけだが、そんなに巧いというわけではない。
表現も簡易だし、書いてある内容も何回か同じような言い回しを使用しており、ちょっとしつこいかな? ありきたりだなと思わせる部分も多々ある。
だが、氏の文章には温かみが感じられる。
「楢山節考」も今回の「みちのくの人形たち」も筆者の感情が文章に乗り移っている。
特に今回の「みちのくの人形たち」は筆者自身が経験したような「ルポルタージュ」形式になっており、余計に強くそう思えた。
舞台は東北の奥地、1960年代から70年代、東北からの出稼ぎ者が主人公の家に、突然現れるところから始まる。
それも山草の土の件でやってくる。
主人公は見知らぬ人の突然の訪問に対しても、つっけんどんに追い返すわけでもなく、付き合い、ついには彼の誘いに応じてその男の家にまで赴くことになる。
現代ではなかなか想定しえないシチュエーションである。
その人の家に行った際に、その村での風習を経験し、独特の感覚を覚えて帰ってくるという話である。
この風習と言うのは、生まれたばかりの赤ん坊を息がする前に窒息させて殺してしまうというものである。
息をしてしまうと、殺人になってしまうために、その前に殺してしまうという事だ。
これは田舎で次から次へと子供ができてしまうが、その子供を堕胎できない為に、取られたその田舎だけに伝わる風習らしい。
その生まれたばかりの赤ん坊を逆さ屏風の陰で行う。
その屏風を管理しているのが、その昔産婆で、その罪の深さから両腕を切り落としたご祖先を持つ「旦那様」である。
彼家族はその地域で赤ん坊が生まれ、口減らしをしないといけない場合、地域の人々に屏風を貸し出している。
主人公はその事実を知り、びっくりすると共に、幻覚症状に近い感覚をしばらく味わうことになる。

筆者の「楢山節考」も今回の「みちのくの人形たち」も田舎の昔からの風習に応じて何の疑問も感じることなく「口減らし」を淡々と行う。
家族も周りの人々も、泣くわけでもなく、淡々としているのである。
筆者は感受性豊かな性格であるため、この田舎の風習みたいなものに気持ちが追い付いていけずに、あっけにとられているばかりである。
その筆者の様を深沢は簡易な文章で書き連ねていくのである。
読み手は、筆者の平易な文章と同じような表現の連続により、その異様な光景の中に徐々に吸い込まれていく。
これが深沢文学の真骨頂である。
「楢山節考」で一番に印象に残っているのは、おばあさんが居なくなった晩に普通に日常生活が進行しているその光景である。
今作「みちのくの人形たち」でも赤ん坊を葬っていても普通に日常生活が流れている違和感である。
この違和感をクローズアップしているのが筆者の書く原動力となっているのだなと感じた。
返信
返信1
管理者さん (9ak63x61)2024/10/7 10:36 (No.1295063)削除
第4回 11月度読書会テーマ『ハンチバック』(市川沙央)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (9bsra2fl)2024/11/7 15:29削除
今回初めて著者の作品を読んだ。マイノリティに関して昨今色々と言われており、健常者がマイノリティを主人公に書くという行為はとかく、理解していないとか、低く見ているとか、マイノリティを蔑視していると揶揄される傾向が強くなっている。
 その点、本小説は作者自身が筋疾患先天性ミオパチーにより症候性側弯症:しょうこうせいそくわんしょうを罹患しており、筋金入りのマイノリティである。その彼女が同病の主人公にありのまま、気の向くままに彼女ならではの毒を吐かせている。読む側は、変に気を使うことなく、主人公釈華の毒に時に驚き、時に笑い、そして泣く。
 作者市川沙央の彼女が持つ健常者に対する憧れや憎しみの感情が言霊の様に読者に投げ込まれてくる。
 作者の表現や描写はなかなか巧い。健常者がマイノリティをどう見ているのか? どう観察しているのか? またマイノリティが健常者をどう見ているのか? 今までの小説はその部分を書けていなかった。その前人未到領域に初めて作者が踏み込み、タブーをうち破った。そこが芥川賞を取れた理由だと思う。
 健常者がこの小説を書いたとしても、ケチが付いたと思う。理解できていても、何にも分からないくせに、障碍者を主人公に書くなと揶揄されてしまう事だろう。
 主人公の釈華が、妊娠し、堕胎してみたい、と夢想することが宗教的、道徳的にダメだ。けしからんという意見もあるだろうが、あくまでこの主人公は一個の人間としてこの世に生を受けて生きたという証を何かの形で残したいと思うのは自然な思いである。少なくとも僕は釈華の気持ちが痛いほど理解できる。
 限られた人間関係の中で介護士田中にその共犯者として白羽の矢を立てる。合点がいかなかったのは、田中が同意したにもかかわらず、金をもらわずに姿を消した点である。
読んだ人に、以下2点の見解を聞いて参考にしたいと思う。
①なぜ田中は金雄を受け取らずに、釈華の前から姿を消したのか?
②風俗嬢の紗花は、彼女(釈華)が呟いていた、現実には出来なかった「こと」を「私」がするであろうと、呟いて終わるのはどういう意味か?
 様々な解釈の余地を残している本作は、小説として中々上等な仕上がりになっていると思う。
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管理者さん (95epcv27)2024/7/16 09:33 (No.1215597)削除
文学の横道 第3回 9月度読書会テーマ『風姿花伝』(世阿弥)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
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管理者さん (95epcv27)2024/6/11 08:43 (No.1186900)削除
文学の横道 第2回 7月度読書会テーマ『沖で待つ』(絲山 秋子著)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (95epcv27)2024/6/11 10:43削除
今回初めて著者の作品を読んだ。電車通勤で1時間以内であっという間に読み切れる作品である。
 文春文庫だとフォントが大きく、内容も社会人が主人公なので、同じ社会人の身としては、主人公や同期の「太っちゃん」に親近感が沸くと共に、共感できる部分が多々あった。
語り手の「私」(及川)は、東京の大学を出たあと住宅設備機器メーカーに就職し、福岡に赴任することになる。福岡に赴任した「私」は九州の空気を好ましく感じながらも、博多弁が話せない自分をよそ者だと感じ、更衣室や給湯室で職場の人から標準語を用いられることに違和感を覚える。
 同僚で同期の「太っちゃん」もまた、東京の大学を出て福岡に配属された、「私」と境遇を共にする人物である。二人は気の置けない同僚としての関係を築き上げていく。
 友達以上恋人未満の親密さと奇妙さを持った繋がりは仕事を通じて維持されている。配属先の変更により、福岡に「太っちゃん」を残したまま「私」は埼玉への転勤の機上の人となる。
 やがて 「太っちゃん」は東京に赴任し、関係は再開される。
 ある日二人で飲んでいる時に、太っちゃんから「先に死んだ方が相手のパソコンのHDDを破壊する」という提案を受け、私も約束を交わす。秘密の保護という名目によって、死という事象において二人は通じ合うことになる。
 そして「太っちゃん」は不慮の突然死に見舞われる。私は悲しみの中、交わした約束に従い星型ドライバーを差し込んで円盤に傷を入れ、読み出せないように“始末”する。「私」と「太っちゃん」の関係性において、死は秘密と密接に結びついていた。「私」が、死に最も近づくのは「太っちゃん」の秘密を壊す瞬間であったのだ。
 「私」に再会した「太っちゃん」はずっとしゃっくりをしている。しゃっくりによって「太っちゃん」の言葉は細切れになって、「私」と言葉のリズムがずれている。これは「私」と「太っちゃん」のいる世界の「断絶」を示唆している。
 HDDに隠された「太っちゃん」の秘密が、彼の作成したポエムだったかどうかは最後まで分からない。
「太っちゃん」と「私」との最後の会話で、「私」の秘密が明かされる。
 これによりようやく横並びになることを示している。「私」の心に残った「沖で待つ」という言葉は、本来「太っちゃん」の妻に向けられたものではあるが、「私」が「太っちゃん」のいる場所へたどり着くのを「太っちゃん」が待っているという意味を読み取ることができる。二人を結びつける線は、岸から沖まで切れることなく一直線に繋がっているのである。
 「私」は、「また太ったんじゃない?」と口にすることで、「私」自身が存在している世界に「太っちゃんを」を止まらせようとする意思、「太っちゃん」への親愛の情が反映された会話である。
 単なる会社の同期が、地方への赴任、そして別れ、そして再会を経て、“腐れ縁”的関係になり、互いの秘密を結果的に知ることにより、自分は他人に恥部を明かし、他人は自分に恥部をさらす結果になる。
そんな恥部を知ってしまった以上、赤の他人のままではいられなくなるという不思議。これがこの小説のテーマなのではないだろうか?
 主人公の「私」が男と渡り合うような過酷な住宅設備機器メーカーの営業職というのも、本小説で「太っちゃん」が心を許せ、気安く何でも言い合える関係になっていると感じた。同じ“企業戦士”同士が時に愚痴を言い合ったり、オアシスを求めたりと、むしろ私の方が「太っちゃん」のマウントを取っている気がして面白かった。
由宇さん (96ieustn)2024/6/27 10:25削除
沖で待つ
“新卒同期という非言語の日本システム”

産業システムの構造転換とともに、喪失の危機にある概念として
年功序列がある。

経験年数とともに、賃金は向上し、勤務年数が増えれば退職金もあがる。
組織への貢献度はほとんど関係がない。

しかし、システムは崩壊しつつある。産業が成立しないからだ。
なぜ、成立しないかといえば、「実利的なもの」以外、人はお金を払わなくなり、儀式的な
無意味なことには産業が成立しづらくなっている。冠婚葬祭がそのいい例である。
ブライダルマーケットは縮小をたどる。

あたりまえといえば、あたりまえなのだが、不随していた、ある概念が喪失してしまうのは
やや刹那に耐えない。

その概念こそ「同期」である。日本独特の連帯感をもつ同期。

学徒によるクラスメート、あるいは、部活動の仲間、よりもその結束は独特で強い。

友人よりも強く、家族よりもときに強さを持つ、年数の経過をも超越する。
男女関係よりも時に結束し、本音を語れる。

まれに同期が存在しない社会人がいる、誤解を恐れずにいえば、うつ病候補者になりえる。

それほどに貴重な同期入社を表現している。

非言語社会システムの記録として、貴重な作品だと感じた。
返信
返信2
管理者さん (95epcv27)2024/5/30 15:28 (No.1176754)削除
文学の横道 第1回 6月度読書会テーマ『墓掘り男をさらった鬼の話』『信号手』(ディケンズ著)の忌憚のない感想をご自由に書込み願います。
藤堂勝汰さん (95epcv27)2024/5/30 15:30削除
課題テーマ
・墓掘り男をさらった鬼の話
・信号手
を読んで

「墓堀男をさらった鬼の話」 
 この物語は独立した短編ではなく長編小説『ピクウィック・ペイパーズ』の中で語られる挿話であるらしい。
孤独で陰気で、人の不幸を喜ぶようなひねくれ者の葬儀屋ゲイブリエル・グラブが、クリスマス・イブの夜に墓場で鬼に出会うという物語である。
この人物は後の『クリスマス・キャロル』の主人公スクルージの原型だという。

 世をすねた墓堀男がクリスマスイブの夜にやり残した墓堀の続きをする。人が幸せそうにしていると無性に腹が立ち、嫌みを言うのが常であった。この夜も墓堀に向かう途中、クリスマスの讃歌を練習していた子供をひっつかまえて、カンテラで何度も殴る。子供が泣きながら逃げていくのを見て楽しくなる男である。
 ウオッカを飲みながら墓堀をしていると、先程から子供を泣かせる様子を見ていた鬼が現れ、このゲイブリエルを地底に連れて行く。途中鬼たちが墓石で次々に馬飛びをしていく場面など、恐ろしくもコミカルな要素も多いが、心に残るのははやり鬼がゲイブリエルに見せる映画のワンシーンのような映像の数々と、彼の反応である。
鬼は、死んでいく天使のような幼子の姿や、貧しいけれどひたむきに生きる人々の様子、美しい自然の風景などを次々とゲイブリエルに見せていき、ゲイブリエルはこれまで見ようとしてこなかったそれらの光景を食い入るように見つめ続ける。
そして、妬みの気持ちから楽しくはしゃぐ子供に意地悪をしていたことを鬼に指摘された彼は、映像を観終わり、これまでの自分勝手な考えを改めることを決意する。
このあと、改心し、鬼から解放されたゲイブリエルがどのような人生を送ったのかは詳しくは描かれていない。
道徳的な要素が全面的に押し出されているというよりは、超自然的な存在の鬼の持つ恐怖やユーモア、自分勝手なゲイブリエルが鬼たちに好き勝手にされるおかしさなどが目立った作品となっている。
悔い改めるゲイブリエルの様子はどこかあっさりとしてもいる。
希望と野心に燃えていた若き青年ディケンズの姿が垣間見える小説である。

「信号手」
 ディケンズの傑作短編と言われている。多くのファンがいる作品である。
信号手の仕事は、前後のポイントからの情報に基づいて必要があれば自分の信号を赤に変えるというものである。自分も情報を送る任務を負っている。
 「私」 は偶然に崖から深い窪みを見下ろして信号手を見つける。声を掛けて信号手の小屋へ行き世間話をする。しかし信号手は酷く何かにおびえている。話をするうちに、彼が赤信号燈のところに幽霊がいて、しきりに自分になにかの合図を送っているのが見えるという事を知る。胸騒ぎがするが、そんな曖昧な情報を送ることができずにいた。日を改めて小屋を訪れた私は、彼が列車に轢かれて死亡した現場に遭遇する。その列車運転手の状況説明は、彼 (信号手) が見たという幽霊の行動とそっくりなので戦慄を覚える。
一種の未来予知能力を題材にして、信号手にそれを体現させたようにも見える。一方、作中の 「私」 が実はこの世の人物ではなく、信号手の身に危険が迫っていることを伝えに来た霊界の者という設定も考えられたりする。
 この小説を書くきっかけなった実際の列車事故に遇ったのは1865年6月9日、翌年に書き上げて、1870年6月9日にディケンズは亡くなっている。

チャールズ・ディケンズといえば、貧しい人々の視点から社会を見ようとしたイギリスの国民的作家である。
「おうい、そこの下の人。」
本小説のキーワードは、この一言に尽きる。
このセリフが何回か出てきて、誰が誰に対して放ったセリフなのか後半分からなくなる。
私なのか? 幽霊なのか? はたまた信号手なのか?
この誰が放ったかわからないセリフが読者を混乱させ、恐怖を味わせる効果を増大させている。
そう言った意味でこの小説の手法は現代のミステリー小説の源流になっていると思うのである。
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